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大澤真幸「巫女の視点」

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さて、栄えある第一回目は、大澤真幸さんの「巫女の視点」という文章です。

小見出しをふっておくと、

■真実はいつも隠されている?
■「言語」と「身体」に分ける見方のひび割れ1 民間伝承
■「言語」と「身体」に分ける見方のひび割れ2 労働価値「説」
■巫女は結局何をしたのか?

となります。
では、実際に書きこみながら読んでいった軌跡を追ってみましょう。
(クリックすると拡大しますが、お手持ちの『ちくま評論選』での方が見やすいかと思います。)
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真実はいつも隠されている?



さて、のっけからつまづいたのがこのフレーズ、「真実はいつも隠されている」です。
気を抜くとスルーしそうなこの表現も、対偶の「隠されていないものは真実ではない」と書けば、
ちょっと強すぎる命題であることが分かっていただけるかと思います。

とはいえ、実はこのフレーズは本の編者がつけた導入文なのですが、
大澤真幸さん自身はそこまで極論をしていなくても、読み手としては「いつも隠されている」と読みたくなる構成になっているのもまた事実です。
なので、このフレーズにしばし乗っかって読み進めてみることにましょう。

まず、「隠されている」というからには、何かが何かに覆われている、見えなくなっている、という風に、
二つの要素が必要になるわけですが、この文章の中ではそれが「言説」と「身体」。

一番わかりやすいのは、p82の第一段落ですね。

「要するに、別当に対して現れている世界が、複層的に構成されているのである。すぐに言語化され意識される層、つまりさしあたって見えている層が、表層である。しかし、その下に、もう一つの層、身体的な層がある。しかも、これらの二つの層はきれいに順接しておらず、逆接している。(一方の層では見えていることが、他方の層で否定される。)この逆接が強いる「無理」が、病として現れているのである。病は、言ってみれば、地表に露出した深部の地層のようなものである。」


正直、「受験現代文」なら、この二分法に従って読み進めていけばよいわけです。
ですが、実は書き手の大澤自身が、おそらく意図的にではなくこの二分法の窮屈さを露呈させています。
(ある二分法の無理さを表現することは、意図的にならばはっきりと一つの技で、なんらかの効果を持ちます。)


「言語」と「身体」に分ける見方のひび割れ1 民間伝承



では、その無理さにつながる部分を見ていきましょう。

まず、ひっかかったのは、冒頭で馬頭観音像の説話を引用した後に置かれた、
「この説話がただちに教えてくれることは、経験している世界の本当の姿を知るためには、逆説的なことではあるが、見ることを遮ること、見ること自体から離れることが必要だ、ということである。」

から始まる文章です。

告白すれば、僕は大澤真幸さんの大ファンなのでそこまで感じないのですが、
なんとなーく小馬鹿にされているというか、知性をひけらかされているという、
そういう感覚を皆様は抱かれなかったでしょうか?

この「ただちに」に。

ですが、大澤はその舌の根(ペン先)も乾かぬうちに、
p79末「別当が病に倒れるのは、なぜだろうか?民間伝承の水準では、この病は、観音さまの復讐やたたりとして解釈されるだろう。このような解釈は、起こったことを直接に合理化するためのよくある虚構であり、病にかかったことのトートロジカルな言い換えにすぎない。

と述べるのです。

連鎖的にいくつかの疑問が浮かびます。

まず、否定的な評価が下されている民間伝承の水準での解釈ですが、
僕にとってはそれは「身体に染み込んでいる」といったような形で「身体」に属するものに思えるのです。
しかし、大澤の中では、それは、文章内では否定されている、表層の「言語」の層に属するようです。

次に、民間伝承の水準での解釈こそ「ただちに」訪れるものではないか?ということです。
自然に考えるならば、大澤が「ただちに」と書いた内容は、
せめて「少し考えてみると」といった形で書かれるべきものでしょう。

ですが、あえて大澤の「ただちに」が、少なくとも彼(彼の住む世界)にとっては真だと考えるならば、
彼のいる地点はどこなのでしょうか?

『社会学のすすめ (21世紀 学問のすすめ)』に収められ、
説話の中の巫女の地点(視点)を「社会学」の視点として描きたいこの文章内でなら、
その「ただちに」を共有できる者こそ社会学徒なのかもしれません。

しかし、ここで彼自身の言葉が突き刺さります。一回引用した部分ですが「すぐに」に注目してください。
「すぐに言語化され意識される層、つまりさしあたって見えている層が、表層である。」

この彼自身の言葉によるならば、
「ただちに」で書いた大澤の考えこそが、「表層」性を免れないということになります。
どうです、段々雲行きが怪しくなってきました。

ここで得た、どうも怪しいぞ、という気持ちを原動力に、
また、通俗的には身体的と考えられる「民間伝承の水準の解釈」は、大澤の中では「言語」に属しているらしいということを確認して、
次にマルクスに関する記述に移りましょう。


「言語」と「身体」に分ける見方のひび割れ2 労働価値「説」



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本文中では一番読みにくいと思われる個所ですが、
その原因は一つには指示語の多用です。
しかし、この「指示語の多用」はより本質的な問題をはらんでいます。
つまり、指示語で曖昧に通り過ぎている個所を確定させようとするのが相当に難しい、
というより、論理的に緻密に詰めていくと「あれっ」という箇所が出てきます。

まず、指示語ではないですが、後半の「等置という行為」がどこを指すのかを考えて読んでみてください。

マルクスは次のように叙述しているのである。

 人々が彼らの労働生産物を価値として関連づけるのは、当の物件を同種の人間的労働の物象的外被だとみなすが故ではない。逆である。人々は、交換において、彼らの異種の生産物同士を等置することによって、彼らの異種の人間的労働として等置するのである。

ここで指摘されていることは、等置という行為の前提となるべきことがらが、その行為に対して遅れてやってくるように見えるということである。つまり自らの前提が、あとから遡及的に満たされるかのようなのだ。マルクスは、右の文章に続けて、次のような含蓄深い言葉を付け加える。

 人々はそのことを意識しない。しかし、それを行うのである。


ここから読み取れることは、大澤は「等置という行為」には、前提となることがらがあると考えていることです。
ということは、等置という語はマルクスからの引用部の最後の文に
「人々は、交換において、彼らの異種の生産物同士を等置することによって、彼らの異種の人間的労働として等置するのである。」
という形で二回出てきますが、
前半の「人々は、交換において、彼らの異種の生産物同士を等置する」だけを「等置という行為」という言葉で大澤は捉えているらしいということです。

ここまでの「行為」という言葉の使い方には僕は寄り添えます。

しかし、最後に書かれたマルクスの「含蓄深い言葉」を見ると、
前半の「人々は、交換において、彼らの異種の生産物同士を等置する」だけなら、もちろん人は意識するはずなので、
その後半まで含めた、「「人々は、交換において、彼らの異種の生産物同士を等置することによって、彼らの異種の人間的労働として等置する」までが
「そのこと=それ」の内容だということになります。

これだけでも別に大したことはありません。
「彼らの異種の人間的労働として等置する」ことを「行う」ことはできます。

しかし、ここで大澤は「行う」という言葉、「行」という文字に引きづられて決定的なミスを犯します。

彼は、さきのマルクスの「含蓄深い言葉」に続けて
この最後の言葉は、前提とその帰結との間に転倒がどこで生じているのかを説明している。前提が遡及的に充足されるのは、行為の水準(それを行うのである)であって、意識の水準(そのことを意識しない)ではない。つまり、人々が身体的な水準において現に行っていることと、「行っている」と意識的な水準で把握していることの間にはずれがあるのだ。

と書いています。

しかし、この「前提の遡及的な充足」は、行為の水準にあるのでしょうか?
僕には、それは「行為」という言葉の拡大解釈に過ぎるように感じられます。

百歩譲って、それすらも許容しましょう。彼の文章の中ではそのような使い方をしていると。
ですが、大澤は、「行為/意識」を、「身体/意識」というふうに簡単にスライドさせます。

ということは結局、
マルクスは「彼らの異種の人間的労働として等置する」を「行う」と書いていただけなのが、
大澤はそれを「行為の水準」での「前提の遡及的な充足」だと言い、
そしてもう一段階のスライドで「身体的な水準」だと述べました。
これは完全にアウトです。

というのも、実は、
先に挙げた「民間伝承の水準での解釈」と、ここでの「交換」から「労働の等置」への「前提の遡及的な充足」は、
同じことだと考えられるからです。

確認しましょう。大澤は、
p79末「別当が病に倒れるのは、なぜだろうか?民間伝承の水準では、この病は、観音さまの復讐やたたりとして解釈されるだろう。このような解釈は、起こったことを直接に合理化するためのよくある虚構であり、病にかかったことのトートロジカルな言い換えにすぎない。

と民間伝承について書いていました。

これはつまり、病の原因として、つまりは前提として「観音さまの復讐やたたり」と考えるということです。
そのように、なんらかの虚構の理由づけをすることが「合理化」でもあります。

ですが、「ある商品とある商品を交換している」という事実を前に、
「そこに投下されている人間労働の量が等価だ」という「前提を遡及的に」満たすという「行為」は、
民間伝承の水準での解釈と同型といってよいでしょう。

つまり、「前提の遡及的な充足」を身体的な次元と言うのならば、
「民間伝承の水準での解釈」も、(大澤にしたがえば)行為であり、身体的な水準です。

しかし、「民間伝承の水準での解釈」あくまで言説の水準であるとするならば、
この「前提の遡及的な充足」も、同様に言説の水準での合理化だとみなさねばなりません。
なにより、労働価値「説」という、説に適合的な前提が構成されるのですから、これを「身体の水準」と呼ぶのは難しいでしょう。

さて、ではいったいなぜこんなことが起こったのでしょうか。

一つには筆の滑りです。
大澤は「ただちに」などと書かなくて良かったし、「民間伝承の水準での解釈」をスルーすることもできましたが、その賢さゆえに筆が滑りました。
また、マルクスを持ち出す必然性がなかったにも関わらず、持ち出したことも彼の知性の誘惑でしょう。

二つ目には、彼にとっての「身体」の語の軽さです。
先ほども見たように、「行う」→「行為」→「身体」というスライドを容易に起こしてしまっています。
つまり、彼にとっては、「身体」という言語化不可能な実体が先立つのではなく、
あくまで言語のレベルで「身体」というものがあるのです。
厳しい言い方をすればそうなるでしょう。

三つ目は、これとも重なりますが、「言語」と「身体」という区分けが、
あたかも「+」と「-」を区分けするための便利な箱のようになってしまったことです。
本当にこれは「言語の水準」か「身体の水準」かと熟考していたなら、
このような安易な振り分けの矛盾は起きなかったでしょう。

しかし、四つ目により本質的な理由があります。
説話の「ただちに」(ちょっとしつこいですかね)やってくる解釈によれば、病に陥った別当は、

身体の水準:「観音さまと親しく交わっても良いはずだ」と知っている
言説の水準:馬頭観音は、なれなれしく接したり一緒に遊んではならないもの

という言説の水準による身体の水準の裏切りが原因とされています。
しかし、このどちらの水準でも担保されているのは「観音さまの実在」です。
つまり、民間伝承の水準の解釈と退けられた「この病は、観音さまの復讐やたたりとして解釈される」というふうに、観音さまを実在として考える思考法こそが、この二項対立を支えています。

だが、ここでちょっと立ち止まって考えてみましょう。
「病」が実際にこのような理由で発現するとすれば、それは「民間伝承の水準の解釈」の中に住む者に対してです。
とあるイデオロギーの中にいる者と呼んでもよいでしょう。
けれども、そのイデオロギーの中にいる限り、つまり、観音さまは構成物ではなく実在物だと信じる限り、
決してこの病の原因に気付くことはないのではないでしょうか。

では、巫女はいったいなぜこの病の原因に気づけたのか?
(そして、本当に気づいているのでしょうか?)
読みのクライマックスに向けての問いをここで提起したいと思います。


巫女は結局何をしたのか?



説話の中で(原初的な)社会学に対応しているのは、別当の病の原因を看破した巫女の洞察である。


大澤はこう記して、彼と同じように「ただちに」の共同体の成員に巫女を位置づけています。

しかし、説話の記述に戻れば、
巫女に聞いてみたところが、せっかく観音様が子供らと面白く遊んでいたのを、お節介をしたのがお気にさわったというので、詫び言をしてやっと病気がよくなった

とあるだけです。

ここから直接に読み取れるのは巫女による「治療」だけであり、
それをそのまま「看破」とみなしてもよいのでしょうか。

ですが、ここは大澤の記述に従い、巫女が、別当における言説の水準による身体の水準の裏切りを看破したのだと考えてみましょう。
しかし、先述したように、「観音様が実在する」というイデオロギーから自由でない限り、
言いかえれば「観音様は別当(をはじめとする村民)の中での構築物」であると考えていない限り、
大澤が考えるような「病の原因」は「看破」できないはずです。

それでも大澤に寄り添えば、何よりもまず「観音様は皆の構築物である」と見抜いている巫女が下した診断と処方箋はどういう意味を持つでしょうか?
「観音様が子供らと面白く遊んでいたのを、お節介をしたのがお気にさわった」と観音様の実在は担保し続けたうえで、「詫び言」をさせている。
つまり、イデオロギーの虚構性を見抜きながら、その維持に尽力し続ける巫女像が浮かびあがります。

彼女の存在が肯定されるのは「病の治療」という、
僕ら現代人からすると疑いえない価値ある行為をなしているからで、
それ以外の点からはたとえば体制の維持者というレッテルを貼られても文句は言えない立場です。
(もちろん、ある安定した秩序を保つことはそのような中身のないレッテルで否定されるものではないですが)

ですが、これが大澤が描きたかった社会学者の姿でしょうか?
僕は「描きたかった」という点では違うと思いますが、
描きたかった社会学者像を描くことで描いてしまった必然的な帰結だとは思います。
なぜでしょうか。

それは、巫女をこのような特権的な位置におかない解釈も十分に可能だったからです。
つまり、村民がみな、観音様の虚構性には気づいている、そういう社会を想定すればよかったのです。

しかし、虚構性に気づいていてなぜなお別当は病にかかったのでしょうか?
それを考えるには大澤の以下の記述が参考になります。
「観音像を共同体の成員たちの相互的な規定の関係から距離化された場所に位置づけ、観音像の存在が―そして観音の超越性を代行するもの(たとえば説話の中では別当)が―一方的に成員たちの行為を規定するような関係のことである。」

お分かりになりましたでしょうか。
別当の病は実は観音様のあり方についてのものではなかったのです。
子供を叱り飛ばすような形でふるまう自分自身のありかたについての悩みだったと考えるのが自然でしょう。

このように、観音様の虚構性に皆が気付いていると考えた上でも、十分に病の解釈は成り立ちます(多分に精神分析的ですが)。
そして、そのような解釈に必要な視点はすでに大澤自身が提供しているのです。

では、目前にまで迫りながらなぜ大澤がこの解釈に至れなかったか?
それはやはり、どこか社会学者=巫女を特権視するおごりではなかったでしょうか。

僕は、自分自身を賢いと考えることは否定しません。
人は他人より賢いということは実際に起こるからです。
しかし、「賢い」と考えるせいで見えたはずのものが見えなくなるとき、それはやはり否定されるべき覆いのように僕には感じられます。

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