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 受験現代文から大学生型読書へwithちくま評論選―高校生のための現代思想エッセンスに戻る  岡真理「棗椰子の木陰の文学」に進む

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小池昌代「背・背中・背後」

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さて、三回目ですね。
詩人の小池昌代さんの「背・背中・背後」です。

実はこの文章、高校時代に模試か何かで見かけたことがあったのですが、
その時には問題として解くのに必死でした。
ですが、今回は小池さんの柔らかい文章に対してこっちも肩の力を抜いて柔らかく戯れてみたいと思います。
(第一回、第二回目まではこちらの肩に力が入りすぎていたという反省もありますし)


小見出しは

■詩人は本当に子供のまま?
■「遊び」と「不安」とどっちが先?
■だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だの予測可能性

となります。
(クリックすると拡大しますが、お手持ちのちくま評論選の方が読みやすいかと思います)

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詩人は本当に子供のまま?



さて、今回は引用もバシッと短くいきましょう。
しょっぱなからですがラストの一文の引用です。
「幼年時代から今に至るまで、ずいぶんと長く遊んでいることになる。」


文章の全てを一気に収斂させるようなまさに「鮮やか」といえる一文ですが、
これをやられての放心状態が過ぎると、ムクムクと抗ってみたい欲求が湧いてきます。
確かに、幼年時代から「遊び」続けているかもしれないけれども、それはなんらかの形で変質していないのか?ということです。

詩人=子供は果たして成り立つのでしょうか?
そういった(意地悪な)目で読み直していきましょう。

まず、冒頭、「待ち合わせ」という行為からして、大人の行為です。
子供時代を思い返してみるに、まず「久し振り」に会う人というのが少ないですし、
そういう人は、訪ねてきたお客様か、自分がお客様か訪ねて行った時の「その家の人」だったんじゃあないでしょうか。

そして、そういう状況では、「お客様」と、「その家の人」は、正面を向いて挨拶するので、
冒頭で描かれる待ち合わせのシーンのような「背中」をさらすという状況がまず起こりません。

それでは、身近な人の背中はどうでしょうか。
親しいと感じていた人の背中に、自分の知らない何か、を感じることは多々あります。
しかし、それは子供も感じているものでしょうか?

思い出しましょう、母親とはぐれてしまったとき、
その背中を見つけたと思った瞬間、「おかあさーん」とダッシュしていく時の気持ちを。
そこでは、その背中と、「自分にとっての母親」の同一性への信頼には一点の曇りもありません。
そうでなければ、よく背格好の似た別の人の背中を、母親と間違えるなんていうことが起こるでしょうか?

さらに、その「おかあさーん」のダッシュから別の個所へのコメントも可能です。
それは、
「名前を呼ばずに、例えば、あのーお待たせしました、とか、小池でーす、こんにちは、とか、そういう類の言葉を投げかけて、その人が確実に振り向くかどうか。私にはほとんど自信がない。」

さて、「おかあさーん」を名前だと思って通り過ぎればなんてことはないですが、そうもいきません。
世の中の結構な数の人が誰かにとっての「おかあさーん」である以上、
それは、「小池でーす」と声をかけられる可能性よりも大きいと言って差し支えないでしょう。
世の中の小池さんの複数性以上に、おかあさーんの複数性は開けているのです。

それにもかかわらず、おかあさーん、が「自分にとってのお母さん」を振りかえらせることを信じて疑わない、
そのような時間をひとつ想定することができます。

するとどうでしょう、やはり子供と大人という区分けだと、どうしても不都合がでてきてしまいます。
ここは、(それでもおおざっぱさは免れませんが)、疑いを知らない時期の「おさなご」、
その信頼感に亀裂が入り、全てに疑問の目をさしはさんでいく「子供」、
そして、その疑いをひとつひとつさしはさむことなく自動化していく「大人」という区分を考えてみることにしましょう。

すると、
「幼年時代から今に至るまで、ずいぶんと長く遊んでいることになる。」

という小池さんの台詞をそのまま受け取る(=おさなごの頃からずっと)わけにはいきませんが、
それを「子供」になって疑いを持ち始めてからそのままその疑問を維持したまま、大人にならず、
と変形すればとりあえずは首肯することができます。

それでは、次に、おさなごから子供への移行について考えてみましょう。


「遊び」と「不安」とどっちが先?



さて、意地悪な読み方の第二段です。だるまさんがころんだについての部分。
「ここまで来て思い出すのは、子供のころの遊びである。昔からあるいくつかの子供の遊びには、背後や背後の不安感情を、逆に利用したものが多いような気がする。」

「子供のころの遊びの行為は、身体の奥に、そのまま原型として保護され、手付かずのまま、大人へと持ちこされていくことが時々あるようだ」


さて、文章中に間をかなりあけた形で埋め込まれていると気付きませんが、
こうやって切り出すと、矛盾につながるようなことが述べられているのがわかりやすくなります。
つまり、「背後の不安感情」が先にあって、それが遊びに流用されるのか、
それとも、遊びによって背後に関する観念が育っていくのか、という問いです。

ですが、この問いはもうちょっと精緻な形にしなければなりません。
というのは「背後の不安感情」が、「自分の背後への不安」と「他者の背後へ近付く不安」とに分かれるからです。

そういう目線で読み直すと、
「待ち合わせなのだから、すぐにでも近づいていけばいいのに、身体の奥に妙な抵抗感があったのは、背後をくぐってそのひとに触れるという行為に、鬼に近づく、タブーに触れるという意味が、かすかに残っていたからかもしれない。」

とあることからも、遊びによって形成されるのは「他者の背後へ近付く不安」のようです。

ということは、遊びに利用される不安感情が「自分の背後への不安」であれば、
小池昌代さんは明示的には書いていないですが、
だるまさんがころんだを通じて、「自分の背後への不安」が、「他者」にも投影され、
他者にとっても不安なのだから近づいてはいけないという風に「タブー」を形成していると、
これは非常にきれいにまとまるのですが果たしてどうでしょうか?

上のような話になるには、「自分の背後への不安」の方が「他者の背後へ近付く不安」に先行していないといけないわけですが、これってどうなんでしょう?
ちょっと僕の記憶を遡ってみてもあいまいです。

肝腎な部分ですが、そこは保留ということにして、
だるまさんがころんだ自体を次で検討してみましょう。


だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だの予測可能性



さて、上のような「自分の背後への不安」はだるまさんがころんだ以前から存在し、
「他者の背後へ近付く不安」はだるまさんがころんだによって形成されるという理論にはひとつ障害があります。

というのも、より鬼を怖くするためには、
鬼がいつでも好きな時に振り向いてよいというふうにしたほうがよいはずだからです。
ですが、そうすると鬼以外の者が近づきにくい。
だから、「だるまさんがころんだ」を唱えている間は「振り向けない」=「安全」というルールになっているのです。

・・・と考えると、そのように安心感を持たせる工夫をしなければならないということは、
「他者の背後へ近付く不安」は、すでにあって、
実際には、その不安を乗り越えるために「だるまさんがころんだ」が存在するとも考えた方が自然ではないでしょうか。
子供がそのおそろしさを知ってしまった「他者の背後」へ近づいていく「勇気」を育てるために。
怖れを知らない「おさなご」が、怖れを知って「子供」になったのを、再度怖れから脱却させ「大人」にする、
そのようなものとしてだるまさんがころんだを捉えることが可能です。

そこでタブーが形成されるという小池さんの指摘とは裏腹に、
子供が持ってしまった「他者の背後へ近付く不安」を、
「鬼」という目に見える、しかも「だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ」を唱えることで予測可能な形に変換することで、乗り越えさせる、
そのようなものとしてこの遊びはあるようです。

そして実際は小池さん自身、
その中の誰か勇気ある者が、鬼と鬼につながれた子供のあいだを、「ゆび、きった。」と言って切断する。

と書いており、遊びの前から、「他者の背後へ近付く」ことが、不安で勇気を必要とする行為だと認めていいます。

ここからは、僕の勘ですが、小池さんはだるまさんがころんだで、最後まで鬼に近づけない子供だったのではないでしょうか。
だから、怖れの乗り越えが不十分であり、
子供のころの遊びによって形作られたタブーが染み付いているという本人の解釈とは違い、
子供から大人になるための遊びで乗り越えられなかった怖れをそのまま維持している、
こういう風に考えることができます。

「幼年時代から今に至るまで、ずいぶんと長く遊んでいることになる。」

というのは、実は、子供から大人になるための「遊び」をいまだクリアできないでいる、
こういうふうに捉えることが可能なわけです。
それゆえに、冒頭のように、待ち合わせ相手の背中に声をかけるのとためらってしまうと。

ですが、やはり、小池さん=子供、ということにはなりません。
遊びとは別の形で、やはり小池さんもその怖れをある程度乗り越えているのです。

それはつまり言葉によってです。
子供のころには疑問は持っても名づけられなかった、説明できなかった感情に、
小池さんはこの文章のように言葉で相対することでそれをある意味で乗り越えていっているのです。

小池さんが言葉の次元に住んでいることを示すのが、かごめかごめについて述べている次の箇所です。
鬼らしき子供を輪のまんなかに置いて、その周囲を、手をつないで、輪になって回る。歌が終わったところで、鬼は自分の背後に位置する子供をあてる。「夜明けの晩」とは奇妙な言葉だ。そして、「後ろの正面」という言葉は、わけもなく、怖い。二つともに、まったく逆の意味が同時に響いている。


はっきり言ってしまえば、「夜明けの晩」や「後ろの正面」という言葉は、子供にとっては怖くないのです。
それは遊びの中のフレーズなだけであって、意味を取るべき「言葉」ではありません。

このことからも、小池さんが、遊びによる乗り越えはクリアできないままとはいえ、
子供の次元にそのまま残っているわけでもないことがわかります。
だるまさんがころんだ、によってタブーが形成されると考えてしまったのも、その「ズレ」のまた一つの証左です。

まとめます。

「怖れ」「疑問」「不安」を知って「おさなご」から「子供」になったものの、
その「怖れ」を「遊び」によって封じ込めて「大人」になることはできないまま、
「言葉」を手に入れた子供のことを「詩人」と呼ぶのではないか。
この文章と戯れる中で僕はそう考えるようになりました。


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